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谷田部は歴史が生きる町~建築物と人の関わりから見た谷田部~

 こんにちは。芸術専門学群2年の許松香です。

 今記事においては、谷田部にある様々な建築物とそこに暮らす人々の関わりから、谷田部がいったいどのような町なのかということを紐解いていきたいと思います。


 


 まず初めに訪れたのは、旅館「梅屋」さんです。

 谷田部に入ってから細く長い坂道を下ってゆくと、道の右手側に愛宕神社があるのですが、そこをさらに奥に進むと4階建ての洒落た建築物が見えてきます。そう、一見小さなホテルのようにも見えるこの建物こそが、旅館「梅屋」さんなのです。

 私たちは、旅館のご主人にアポを取り、旅館「梅屋」、ひいては谷田部全体のまちの様子について伺いました。

 さて、我々が「旅館」と聞いて思い浮かべるのは、上の写真のような建物ではなく、もっと「和風」な建築物であると思うのですが、なぜ旅館「梅屋」はこのようにややモダンな外観をしているのでしょうか。

 このことについてご主人に伺ってみると、客層や時代の流れによる「和洋折衷」への変革が背景にあることが分かりました。

 



 旅館「梅屋」さんには、観光というよりも、どちらかといえばビジネスや合宿を目的に泊まりにくるお客さんの方が多いみたいです。

 現在「梅屋」が建っている場所はもともとは駐車場で、昭和59年から旅館として運営され始めたのですが、旅館「梅屋」自体は明治のころに開業しており、現在の「梅屋」の外観は、今の場所に旅館を構える際に、こうして需要に合わせた変化を遂げた結果であります。

 本館の隣で現在工事中の建物は、元は150人も入ることのできる宴会場だったのですが、コロナに関係なく宴会場自体を使用することがなくなったため、現在は大浴場に改修している最中のようです。

 歴史や伝統を大切にしつつも、変化を恐れることなく「より良い」ものを目指す姿勢は、私も見習わなくてはと思いました。




 次に向かったのは「市民ホールやたべ」です。

 職員の方にお話を伺ったところ、どうやら地元の人々にとってかなり身近な建物であるらしく、隣にある小学校の卒業式から議員の方々の会議まで、非常に広い範囲にわたって活用されているようです。

 中でも特に熱弁してくださったのが、「伊賀七」を取り扱った演劇についてで、以前は伊賀七座の本拠地で行われていたのですが、今年は市民ホールを使うことになったそうです。

 関係者以外立ち入り禁止のところ、今回は特別に中の様子を撮影しても良いとのことで、お言葉に甘えて使用される会場の写真を撮ってきました。

 建物の外観からは想像できなかったのですが、地下を掘って造っているようで、想像していたよりも広々とした空間になっていました。




 さて、「伊賀七」についてより詳しく調べるために、市民ホールの隣にある交流センターに行き、そこの3階にある資料館にお邪魔しました。

 伊賀七は、からくりの技術を用いて様々な発明をし、谷田部に大きな貢献をした人物として知られており、主な発明品に、自動脱穀機や糸繰り機、伊賀七の時計などが挙げられます。

 上にのせている写真は、伊賀七が建てた「五角堂」というもので、谷田部市街南西に位置する飯塚家の敷地内に現存しています。「五角堂」は、床面が正五角形の大変珍しい建物であり、県史跡に指定され、平成元年に解体修理が行われました。

 この五角堂に関しては、市民ホールの方以外に、声をかけた街の人からもおすすめスポットとして紹介されたのですが、こういったところからも谷田部の人々が「伊賀七」を誇りに思っていることがよく伝わります。




 そして、最後に足を運んだのは「玉川堂」です。

 私が谷田部の調査に向かったこの日は、たまたま三年ぶりに祇園祭が開かれており、神輿のお囃子を担当している真瀬共同芸能保存会の方々から詳しいお話を聞くことができました。

 現在「玉川堂」は和菓子屋さんですが、かつてはそこに映画館があったようです。

 「我々が小学生の時は体育館もなかった。芸能人が来るのも玉川館だけ。」とおっしゃっていたように、谷田部に昔から住んでいる人にとっては「玉川堂」は特別な存在なのだと感じました。

 現在は五代目玉川さんが家を継いでいるのですが、祭りの運営で忙しいようで、私が和菓子を買ったときは先代の方が対応してくださいました。

 決して目を引くような建物ではなく、むしろこじんまりとした佇まいではありますが、谷田部に暮らす人々にとってはその存在感は大きなものでしょう。

 その背景には脈々と紡がれてきた歴史がありました。

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