こんにちは。筑波大学芸術専門学群3年の芳村帆夏です。
今回私は、谷田部の街が生んだ発明家についてご紹介させていただきたいと思います。
1.知る人ぞ知るひとりの天才
さて、みなさんは「飯塚伊賀七」という人物をご存知でしょうか?
恥ずかしながら私は、谷田部について調査を始めるまで飯塚伊賀七という人物はおろか、谷田部が歴史上重要な人物を育んでいたことすら存知あげませんでした。
冒頭からお察しの方も多いかと思いますが、飯塚伊賀七という人物は、谷田部が生んだ発明家なのです。時は江戸時代後期、彼はその生涯を谷田部の地で過ごしたといいます。その当時、現在の谷田部は常陸国筑波郡新町村であり、谷田部藩の藩領でした。
飯塚家は代々名主を務める家柄で、伊賀七自身も名主を務めていた時期があったようです。職務の傍に、建築や機械の発明・研究に打ち込みました。
建築にも、発明にも造詣が深い、と聞くと私は直感的にレオナルド・ダ・ヴィンチが思い浮かびます。天才は時代や国を超えて通じ合う部分があるのかもしれませんね。
2.伊賀七と和時計
続いて彼の代表作を紹介させていただきます。ダ・ヴィンチの代表作といえばやはりモナリザが真っ先に思い浮かびますが、伊賀七の代表作は「和時計」です。
和時計とは、江戸時代から明治初期の間に日本の当時の時間制度「不定時法」で作られた時計をいいます。
西洋は一日の時間を等分した「不定時法」であったのに対し、日本では昼と夜をそれぞれ6等分した時制をとっていたそうです。それはつまり季節によって単位時間の長さが変化することを意味します。実際の和時計がそうした条件のいかにクリアしていたのか非常に興味深いものですね。
復元された和時計は谷田部郷土史料館にあるそうですので機会がありましたらご覧になってみてはいかがでしょうか。
3.五角堂を訪ねました!
かつて五角堂には大型の和時計があったそうです。梁の上には、大型和時計であった部品の一部が残されており、それを元に復元和時計が制作されたといいます。
実際に五角堂を訪ねてみたのですが、建物からその歴史の深さを感じました。加えて、街中に突然に史跡が現れてくる、というのに不思議な感覚を覚えました。身近に史跡があるなんてロマンだなあ、としみじみと感じてしまいました。
今回は谷田部が生んだ発明家、飯塚伊賀七について焦点を当てさせていただきました。後日、一緒に五角堂を訪ねた筑波大学芸術3年の水上さんが五角堂について取り上げるそうなので楽しみ待ちたいと思います!みなさんもよろしければそちらの記事も合わせてお読みください!
最後まで読んでいただきありがとうございます。飯塚伊賀七という人物についてほんの少しでもご興味を持っていただけたでしょうか。谷田部を訪れた際は伊賀七ゆかりのものや場所を探してみてください!
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