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歩いて見つけた"ランドスケープ" 『谷田部で見つけた過去の片鱗と今』前編

こんにちは。芸術専門学群2年の小原映理です。

今回私はつくば市は南、常磐自動車道のインターチェンジでお馴染みの谷田部へと足を運びました。町を見るにあたって、つくばエクスプレスのみどりの駅から歩いて散策をしようかとも考えたのですが、今回は自転車です。如何せん外は35度を上回る酷暑も酷暑。土地勘のない町を歩き回るには少しばかり暑すぎます。


私はペデストリアンデッキで茗渓高校という学校の辺りまで南下し、そこから大きな通りに沿って谷田部の方面へと向かいました。車道の交通量に対して人っ子一人いない歩道の上、自転車を飛ばしていたわけです。途中、あまりの暑さにほとほと参ってドラッグストアのカワチに逃げ込み、涼むついでに冷感シートと塩分タブレットを購入しました。その後、店のすぐ外に見えたたこ焼き屋の看板に釣られて、カワチ正面にある筑波学園病院の目の前までふらふらとやって行きました。

すると、病院の敷地を囲う植物の緑の向こう側から、何やらモニュメントのようなものが顔を覗かせました。テッペンが飛行機の形をしたそれは、一見病院とは何ら関わりのなさそうなものにも見えました。兎に角、少し気になったものですから、敷地内にお邪魔してモニュメントの目の前に立ってみました。


"谷田部海軍航空隊記念碑"


そう書かれていました。というのも、この筑波学園病院の敷地には且つて、“谷田部海軍航空基地”という軍事基地があったのです。此処では主に、昭和の戦時中に赤とんぼ(練習機)による訓練が行われていましたが、戦争も末期になると零式艦上戦闘機の訓練でも使用されました。この基地の航空隊の中から特別攻撃隊が編成されたこともあったようです。

モニュメントの飛行機は零式艦上戦闘機(零戦)です。此方は笠間市の伝統工芸士に製作が依頼されたものとのことです。


実のところ、私の地元である東京都の武蔵野市にも、戦時中は中島飛行機(SUBARUの前身である航空機会社)の大規模な軍需工場がありました。其処では零戦を始めとした戦闘機の原動機が作られていましたが、終戦後は解体、現在は芝生の広がる都立公園へと姿を変えています。


そんなこともあって、少しだけ"縁"のようなものを感じました。


現在、谷田部海軍航空基地のあった広大な土地は、この筑波学園病院と農林水産省の研究機関の施設群にすっかりと覆われています。筑波学園病院の敷地には飛行場の本館が、研究施設群の敷地には芝生の滑走路や掩体壕がかつては存在しました。当時を思わせる名残や痕跡のようなものも、全くと言っていいほど見つかりませんでした。

だからこそ、このモニュメントが必要だったのかもしれません。谷田部に確かに在った歴史を伝える、重要な存在なのだと感じられました。


そうして感慨に浸りつつも、あまり同じ場所に長居はできません。何せ暑いですから。

さて移動しようと、このモニュメントを見た後に筑波学園病院の脇の道を進もうとすると、突如行き止まりが。というか、道がズレていました。(道路は右方向に続いていますが、私は真っ直ぐに進めるもんだと思って道を進んでおりました。)

何にせよ車では真っ直ぐには進めませんね。この区画で車が通れるのは、病院をぐるりと一周回るようにして配置された道路くらいのように見受けられました。

少し大通りを外れて脇道に入ると、突然行き止まりに阻まれる。こういうことが今回は度々起こりました。私は自転車でしたから動きの融通が効いたのでよかったのですが、これが車を運転していたとなると些か厄介です。

これはなんだか授業内で触れられた近隣住区論を彷彿とさせるなあ、などと思いながらも、灼熱の炎天下の下では正直堪ったものではありませんでした。思い通りに進路を進めないとなると、確かに用もなく区画内に立ち入ろうとはなりませんね。よくよく実感致しました。


では前編はこのくらいで。





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